2015年11月27日金曜日
和氏の璧
〔和氏の璧〕
楚の人和氏は玉はくを楚山の中で得、奉じてこれをレイ王に献じた。レイ王は玉磨き職人にこれを鑑定させた。玉磨き職人はいった、「ただの石です」と。王は和氏が己を欺いたと思い、その左足を斬った。レイ王が崩ずるに及んで、武王が位に就き、和氏がまたその玉はくを奉じてこれを武王に献じた。武王は玉磨き職人にこれを鑑定させた。玉磨きの職人はまたいった、「ただの石です」と。王はまた和氏が己を欺いたと思い、その右足を斬った。武王が崩じ、文王が位に就いた。和氏が玉はくを抱いて楚山の麓で哭すること三日三夜、涙が尽きて、代わりに血を流した。王はこれを聞き、人にその訳を問わせた、「天下で足斬りの刑に遭った者は多い。あなたは、どうして哭することそれほど悲しいのか」と。和氏はいった、「わたしは足を斬られたのを悲しんでいるのではありません。あの宝玉が石と呼ばれ、正直者が詐欺と名づけられたことを悲しんでいるのです。これが、わたしの悲しむ所以なのです」王はそこで玉磨き職人にその玉はくを磨き調べさせると、それは宝玉であった。ついに名づけて、「和氏の璧」といった。
そもそも、珠玉は人主が急ぎ欲しているものである。和氏は、はくを献じたが、それが美玉でなかったとしても、主の害となることはない。しかし、両足を斬られ、はじめて宝であることが分かった。宝を知ることはこのように難しいのである。
今、人主が法術に対するのは、必ずしも和氏の璧を急ぎ欲しているほどではない。さらに、法術は群臣・士民の私的な悪事を禁ずる(玉磨き職人一人に反対されるだけではなく、国中から批判される)。そうであれば、有道者が殺されないのは、帝王のはく(法術)をまだ献じていないからにすぎない。
〔法術の士は疎まれ、覇王は現れず〕
昔、呉起は楚の悼王に楚国の俗のことを教えていった、「大臣の権力ははなはだ重すぎであり、一族の領主もはなはだ多すぎます。このようであれば、上は君主を凌ぎ、下は民を虐げます。これは国を貧しくし、兵を弱くする道であります。領主の子孫は三世で爵禄を没収し、百吏の禄高を減少させ、不急の官職を減らし、選りすぐりの士に当てるのがよろしいでしょう」悼王はこれを行うこと一年で崩じた。その後、呉起は(不平のあった大臣・領主らに)八つ裂きの刑に処せられた。
商君は秦の孝公に教え、十五の制(十軒組・5軒組の隣保制)を作り、告坐の制(犯罪を申告させる制度)を設け、『詩経』・『書経』を焼いて、法令を明らかにし、私利を君主に請わすことを塞いで、国家の功績を推賞し、民衆が土地を離れるのを禁じ、農耕・兵士を表彰させた。孝公はこれを行い、君主は尊厳・安泰であり、国家は富強になったが、八年で崩じた。商君は(不満のあった大臣・貴族らに)車裂きの刑に処せられた。
楚は呉起を用いずして地は削られ国は乱れ、秦は商君の法を行って富強になった。二人の言はまさに当たっていた。しかし、呉起は八つ裂きの刑に処せられ、商君は車裂きの刑に処せられたのは、どういうわけであろうか。大臣は法に苦しんで、民衆は治を憎んだからである。当今の世、大臣は権力を貪り、民衆は乱俗に慣れること、秦・楚の俗よりはなはだしい。そうだとすると、人主に悼王・孝公のように聴く者がなければ、法術の士はどうして二人の危険を被って己の法術を明らかにしようか。これが、世が乱れて覇王がいない所以である。
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