2015年11月27日金曜日

揚州屠城



次は最後の征服王朝・清だ。

1644年に都を北京に移した清は、中国南部に残っている明朝の残党狩りのために征服戦争に打って出る。


これがすさまじい。「屠城(とじょう)」と言って、「城内の全ての人間を屠殺する」のである。こう言うと、「日本でも珍しくないではないか」と思うかもしれないが、まるで違うのである。


日本では籠城するのは武士であり、城下町はその外にある。

だから、仮に城内の人間がすべて殺されたとしても、それは籠城している武士だけである。

しかし、中国の場合、街全体が城壁で囲まれており、屠城とは街中の市民全員を殺すことなのである。

清の征服軍が行なった屠城で有名なものの一つは1644年の「揚州屠城」であるが、当時揚州は既に人口100万人の大都市であった。

その都市で大虐殺が実行された。

かろうじて生き残った王秀楚という人物が、『揚州十日記』という記録を残している。「数十名の女たちは牛か羊のように駆り立てられて、少しでも進まぬとただちに殴られ、あるいはその場で斬殺された。道路のあちこちに幼児が捨てられていた。

子供たちの小さな体が馬の蹄に蹴飛ばされ、人の足に踏まれて、内臓は泥に塗れていた。

途中の溝や池には屍骸がうず高く積み上げられ、手と足が重なり合っていた」。

この記録によれば、屍骸の数は帳簿に記載されている分だけでも八十万人以上に達したという。

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