2015年11月27日金曜日
秦に見られる中国史の伝統――思想弾圧・大量殺戮・粛清
秦に見られる中国史の伝統――思想弾圧・大量殺戮・粛清
征服王朝から、もう一度初めて中国を統一した秦に戻ろう。なぜなら、ここに中国史を貫く特徴が顕著に表れているからである。その特徴とは、思想弾圧、そして大量殺戮と粛清である。思想弾圧に関しては、今さら多言を要す必要はないだろう。秦の始皇帝は歴史に名高い「焚書(ふんしょ)・坑儒(こうじゅ)」を行なった。焚書・坑儒とは、「書を燃やし、儒者を坑する(儒者を生き埋めにする)」の意味である。これは多くの人が知っているが、意外と知られていないのが秦の大量殺戮と内部粛清である。『史記』の『白起列伝』には、中国統一に至る過程でのすさまじい殺戮が記述されている。例えば、紀元前293年、秦軍は韓と魏(ぎ)の連合軍を破るが、この時24万人を斬首している。その後も数万人レベルの斬首はざらで、最もすさまじかったのは紀元前260年の長平の戦いである。この時、秦軍は山西省高平県の長平で45万の大軍を擁した趙(ちょう)軍を降伏させるが、問題はその後である。45万の趙軍のうち戦闘中で命を落としたのは5万人。残りの40万人は捕虜となったが、秦の白起将軍によりこの40万人の捕虜ほぼ全員が生き埋めにされて処刑(坑殺)されたのである。
次は粛清である。紀元前210年に始皇帝は巡幸中に死亡すると、粛清の嵐が始まる。始皇帝の身辺の世話をしていた宦官・趙高(ちょうこう)と宰相・李斯(りし)は、まず始皇帝から後継指名を受けていた長男の扶蘇(ふそ)を自殺に追い込む。そして、次男の胡亥(こがい)を二世皇帝に据え、権力をほしいままにした。傀儡政権を樹立した後は、趙高と李斯以外のグループの重臣を次々に殺戮。次いで胡亥の兄弟である12名の皇子を処刑し、10名の皇女を磔にした。ところが、次はさらなる内紛と粛清である。今度やられる方に回ったのは李斯であった。趙高は権力独占のために邪魔になった李斯を追い落とすため、謀反の罪をかけ、皇帝の名において逮捕させる。そして例によって一族皆殺しである。これを「族誅(ぞくちゅう)」と言うが、族誅は中国史の伝統である。凄惨な粛清はさらに続く。趙高は、今度は二世皇帝・胡亥を自殺に追い込み、始皇帝の孫である子嬰(しえい)を3世皇帝に立てるが(紀元前207年)、既に自らの力も国の力も衰え切っており、今度は逆に趙高一族が子嬰によって誅殺されることになる。因果である。
なお、秦は子嬰が即位した翌年、紀元前206年には滅びてしまうのであるが、滅ぼしたのが有名な項羽と劉邦である。この時、項羽がやったこともすさまじい。項羽は秦の首都・咸陽(かんよう)に向かう途中で造反の気配を見せた秦兵20万人を穴埋めにして殺している。また、子嬰が降伏して秦が滅亡した後、項羽は子嬰一族や官吏4千人を皆殺しにし、咸陽の美女財宝を略奪して、さらに始皇帝の墓を暴いて宝物を持ち出している。そして殺戮と略奪の限りを尽くした後、都に火をかけ、咸陽を廃墟としたのである。
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