2015年11月27日金曜日

本当の「南京大虐殺」、太平天国の乱



本当の「南京大虐殺」、太平天国の乱


先の洪武帝がのし上がるきっかけとなった白蓮教は、清朝の時代にも大きな反乱を企てる(白蓮教徒の乱1796年~1804年)。清朝末期には、こうした宗教結社による反乱が相次ぐが、中でも死者五千万人とも人口の五分の一が死亡したとも言われ、「人類史上最大の内乱」とされるのが太平天国の乱である。
 太平天国の乱を起こしたのは、キリスト教系の「拝上帝会」と言う結社である(ちなみに、時期を前後してイスラム教結社の反乱である回乱も勃発しているが、当時から20世紀にかけて「洗回」と称するイスラム教徒皆殺し運動が展開され、それによる犠牲者は二千万人とも推定されている)。「天王」と称した洪秀全はキリストの弟であると宣言し、1847年に拝上帝会を創設した後、またたく間に勢力を拡大した。1850年に広西省で蜂起した洪秀全は、1853年に南京を占領、「天京」と改めて都とし、太平天国の王朝を立てた。南京を陥落させた時には、太平天国軍は20万以上の兵力にふくれあがり、水陸両軍を編成するまでに至っていた。





  ものすごい勢いであるが、この進軍の過程で太平天国軍は、後世の毛沢東たちがやったような「一村一焼一殺」を日常的に行なっていた。歴史書の記録によると、太平天国軍が湖南省になだれ込んでからは、湖南全域において「10の村の中の7、8の村が襲撃された。いたるところで財宝が掠めとられて、地主、郷紳(素封家)の家々はことごとく皆殺しにされた。屍骸が野に横たわり、血が流れて川となった。湖南開省以来、未曾有の大災難」であったという。



  しかし、この略奪・殺戮が、後に太平天国自身の悲惨な最後を招く原因を作った。太平天国軍による「湖南草刈り」の13年後の1864年、曾国藩(そうこくはん)率いる湘軍(清の正規軍ではなく漢族の軍隊。北洋軍閥の源)は太平天国の首都である天京(南京)に攻め入ったが、この時の大虐殺は報復とは言え、言語に絶するすさまじいものであった。後に「天京屠城」と称されるこの大虐殺の実態はどういうものだったのか。


  天京を落城させた後に湘軍がとった行動について、曾国藩自身は朝廷への報告書でこう記している。「吾が軍は賊都の金陵(南京の別称)に攻め入ってから、街全体をいくつかのブロックにわけて包囲した上、賊軍を丹念に捜し出して即時処刑を行ないました。3日間にわたる掃蕩作戦の結果、賊軍10万人あまりを処刑しました」。3日間で10万人の処刑というだけでもすさまじいものだが、さらに常軌を逸しているのは、この殺戮が賊軍だけではなく、多くの民間人にも及んだことだ。曾国藩の死後、幕僚の一人であった趙烈文(ちょうれつぶん)は『能静居士日記』の中で、南京住民にたいする湘軍の虐殺を証言している。「わが軍が金陵に入城して数日間、民間人の老弱した者、あるいは労役に使えない者たちは悉く斬殺され、街角のあちこちに屍骸が転がった。子供たちも斬殺の対象となり、多くの兵卒たちが子供殺しをまるで遊戯を楽しんでいるかのようにしまくった。婦女となると、40歳以下の者は兵卒たちの淫楽の道具となるが、40歳以上の者、あるいは顔があまりにも醜い者はほとんど、手当たり次第斬り捨てられてしまった」。こういう証言もある。湘軍と共に天京に攻め入ったある外国人の傭兵が、城内での目撃談を、英国の植民地だったインドで発行している新聞『インドタイムス』で語っている。



  「私は朝廷の部隊が太平天国軍の捕虜たちを殺戮する場面をこの目で見た。彼らは本当に軍の捕虜であるかどうかは定かではない。とにかく、普段は野菜売場である町の広場に、捕虜とされる数百人の人々が集められてきた。群れの中には男もいれば女もいる。老人もいれば子供もいるのだ。歩くにも無理な老婆、生まれたばかりの嬰児、懐妊している婦人の姿も見られる。朝廷の兵士たちはまず、若い女性たちを捕虜の群れの中から引きずり出した。彼女たちをその場で凌辱した後に、周りで見物している町の破落戸(ごろつき)たちの手に渡して輪姦させるのである。その間、兵卒たちはにやにや笑っているが、輪姦が一通り終わると、全裸にされた女たちの髪の毛を掴んで一太刀で斬り殺してしまうのだ。それからが男たちの殺される番である。彼らは全員、小さな刀で全身の肉を一片一片切り取られて殺される。何のためかはよく分からないが、心臓は、一つずつ胸の中から丁寧に抉り出されて、用意された容器に入れられるのである。次に、子供たちが母親の前で殺され、母親たちも同じ運命となる」。



  現在のところ、「天京屠城」で殺された住民たちの数は少なくとも10万人以上であるというのが歴史学上の定説となっている。これこそが、中国史上の本物の「南京大虐殺」なのである。
 なお、太平天国が衰退した大きな理由には内紛があるが、これまた内紛というのは表面的な聞こえのいい表現であって、実質はすさまじい粛清であった。1856年9月、洪秀全はナンバー2であった楊秀清を粛正するのであるが、この時には楊秀清の一族並びに配下の兵たちとその家族約4万人が虐殺されている。既に述べてきたように、秦に始まり、漢の劉邦や呂后、明の洪武帝、太平天国の洪秀全、そして毛沢東と続くすさまじい粛清というのも、中国史の伝統と言えるだろう。

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