2015年11月28日土曜日

社畜


社畜(しゃちく)とは、主に日本で、勤めている会社に飼い慣らされてしまい自分の意思と良心を放棄し奴隷家畜)と化したサラリーマンの状態を揶揄したものである。「会社+家畜」から来た造語で、「会社人間」や「企業戦士」などよりも外部から馬鹿にされる意味合いを持つ。昔の「ガリ勉」に近い使われ方。

英語圏では同様の概念として「wage slave」(賃金奴隷)が存在する。

勤務先の「社畜度」を計測してくれるスマホアプリ「社畜診断」がある。


『意識高い系とは、実は昭和の企業戦士(社畜)と同じである』

賛否両論呼んでいるが、気づいたことがある

いくつかの事例をあげてみよう
「優秀な人との異業種交流飲みで今日も楽しい〜」
→昭和の接待、飲みにケーションと一緒である。


「◯◯社長のビジョンはすごい」
→昭和のカリスマ経営者礼賛とあまり変わらない。

「ウチには優秀な社員が揃っている」
→ウチの社員は優秀だというのは、昭和の経営者と一緒。その割には、売上も利益も伸びないよね。だいたい「優秀ってなんだよ」


「Stay Hungry,Stay foolish.これだね」
→こういう名言受け売りって、昔は松下幸之助や本田宗一郎、盛田昭夫とかが引用されていたのだよね。


「◯◯さんの意見に賛同」
→組織をこえているが、派閥の論理と一緒。今回の記事、ニューズピックスで炎上気味だったようだが(ログインしていないのでちゃんと見てない)私に対しては直接批判してこない。意識高い系クラスタで同調。

というわけで、勘違い野郎の目を覚ますためにも、意識高い系に目を覚まさせる活動に力を入れます。
これが若き老害の務めです。



日本の奴隷制



一説には、すでに縄文時代において奴隷制が存在していたとされるが、歴史文書に初めて登場するのは弥生時代であり、『後漢書』の東夷伝に、「倭国王・帥升が、生口(奴隷)160人を安帝へ献上した」(西暦107年)という趣旨の記録がある。また、いわゆる『魏志倭人伝』にも、邪馬台国女王卑弥呼が婢を1000人侍らせ、西暦239年以降、王へと生口を幾度か献上した旨の記述がある(ただし、「生口」は奴隷の意味ではないと解釈する説もある)。
古墳時代に入ると、ヤマト王権によって部民制(べみんせい)が敷かれ、子代部(こしろのべ)、名代部(なしろのべ)、部曲(かきべ)などの私有民もしくは官有民が設けられた。部民制は、飛鳥時代大化の改新によって、中国唐帝国を模した律令制が導入されるまで続いた。日本律令制度では、人口のおよそ5%弱が五色の賤とされ、いずれも官有または私有の財産とされた。そのうち、公奴婢(くぬひ)と私奴婢(しぬひ)は売買の対象とされた。この2つの奴婢身分は、公地公民の律令制度の解体と、荘園の拡大に伴い、平安時代前期から中期にかけて事実上消滅していった。907年延喜格で正式に廃止されたとされる。五色の賎は、良民との結婚などに制限があったが、良民と同等または3分の1の口分田が班給されており、古代中国などと同じく、現代人が想像する奴隷とはやや異なる存在であった。
平安時代後期に、日本が中世へと移行すると、社会秩序の崩壊にしたがって人身売買が増加し、「勾引」(こういん)や「子取り」と称する略取も横行した。また、貨幣経済の発展に伴って、人身を担保とする融資も行われた。こうして、様々な事情で自由を失った人々が下人となり、主人に所有され、売買の対象になった。有名な『安寿と厨子王山椒大夫)』の物語は、この時代を舞台としている。このように、中世には人身売買が産業として定着し、略取した人間を売る行為は「人売り」、仲買人は「人商人」(ひとあきびと)や「売買仲人」と呼ばれた。また、奴隷が主人から逃亡することは財産権の侵害と見なされ、これも「人勾引」と称された。
自力救済の時代である中世日本では、人身売買は民衆にとって餓死を免れるセーフティーネットとしての面も持つ行為であった[36]。身売りすることで近い将来に餓死する事だけは避けえたからである。鎌倉時代寛喜の飢饉と呼ばれる飢饉が発生した際に多くの人々が自身や妻子を身売りして社会問題となった。そのため、鎌倉幕府1239年になって人身売買の禁止を命じるとともに、例外として飢饉の際の人身売買とそれに伴う奴隷の発生は黙認する態度を示した(『吾妻鏡』延応元年4月13日・5月1日条)。その後、元帝国高麗の連合軍が壱岐対馬九州北部に侵攻し(元寇)、文永の役では、捕らえられた日本人の婦女子およそ200人が、高麗王に奴隷として献上された。国内においては、鎌倉幕府朝廷は、人身売買や勾引行為に対して、顔面に焼印を押す拷問刑を課したこともあった。しかし、14世紀以降、勾引は盗犯に準ずる扱いとされ、奴隷の所有は黙認された。南北朝時代として知られる内戦期になると、中央の統制が弱まって軍閥化した前期倭寇が、朝鮮や中国で奴隷狩りを行った。惣村社会では境界紛争の解決にしばしば下手人として奴隷を利用した。
いわゆる戦国時代には、戦闘に伴って「人取り」(乱妨取り)と呼ばれる略取が盛んに行われており、日本人奴隷は、主にポルトガル商人を通して東南アジアなど世界中に輸出された。関白豊臣秀吉は、バテレン追放令でこれを禁じた。他には、ヤスケという名のアフリカ系奴隷が、戦国大名織田信長宣教師から献上され、武士の身分を与えられ家来として仕えたとの記録が残っている。
江戸時代に勾引は死罪とされ、奴隷身分も廃止されたが、年貢を上納するための娘の身売りは認められた。「人買」(ひとかい)は、こうした遊女の売買を行う女衒を指す語として、この時代に一般化したものである。また、前借金による児童や青少年の年季奉公も広く行われた。これらは明治維新による近代化の後も形を変えて残った。1872年マリア・ルーズ号事件をきっかけに、時の司法卿江藤新平によって、芸娼妓解放令太政官布告として発せられ、このような人身売買は法的には禁じられた。また、それより以前の1870年には、外国人への児童の売却を禁ずる太政官弁官布告が出された。
明治時代、島原天草を中心とする地域から、日本女性の日本国外への「輸出」が大規模に発生した(からゆきさん)。
この公娼私娼の問題は、近代化を進める日本社会において、階級対立の象徴として影を落とした。二二六事件は青年将校が、部下の兵士が国家に対し兵役義務を果していながら彼らの姉妹が貧しさゆえに遊郭に売られていく矛盾への憤りがその一因となっている。


朝鮮の奴隷制

朝鮮では男の奴隷を奴、女の奴隷を婢と呼び、併せて奴婢(ノビ)という。
朝鮮における奴婢の歴史は、中国の征服者・箕子が興した箕子朝鮮の時代より始まるとされる。箕子は朝鮮を治めるにあたり、厳しい刑法(いわゆる〈八条禁法〉)を制定した。その際に刑罰として敷かれた制度が奴婢制であった。人間は自らの労働によって生計を営まねばならない。仮に誰かが詐欺や暴力で他人の財産を横取りしたなら、論理的にも道徳的にもその者は被害者の所有物となるべきとの論理にもとづいて、窃盗犯はすべて被害者の奴婢になるという刑罰が作られた。莫大な保釈金を払って奴婢の身分から脱することはできても市民としての信用は回復されることがなかった。姦通罪も奴婢法によって罰せられた。この場合罪人は国の奴婢となり、王は彼を思いのまま高級官吏に下賜(かし)したりした。
この制度は紀元前193年までほぼ千年以上続いたが、当時の箕子朝鮮の最後の王・箕準(キジュン)が人の衛満によって追放され廃止された。半島の南方に追われて馬韓(バカン)という王国を建てた箕準は、そこで奴婢制をそのままに踏襲した。その後数百年間この制度は存続と廃止をくりかえしたが、918年、朝鮮半島が高麗王朝によって統一された再び一般化することになった。
奴婢の数は急速に膨れあがったが、彼らへの待遇は劣悪で、残忍とさえ見なせるものだった。1198年万積らが公私奴婢を集めて蜂起を画策したものの事前に発覚し、結果として300人を越す奴婢らが首に石を結びつけたまま礼成江(イェソンガン、高麗の都・開京(開城)郊外を流れる川)に放りこまれて処刑された。
李氏朝鮮1592年豊臣秀吉の軍が朝鮮半島に攻め込んだ(文禄・慶長の役)。この折、奴婢らが混乱に乗じて戸籍の消滅を図り景福宮に放火したため、王宮は漢陽陥落以前に焼失している。7年にもわたる戦乱で多くの男子が犠牲になったため、朝廷では奴婢のうち男性をその身分から解き放った(しかし、実際は従来どおり男の奴婢もいた)。
1894年甲午改革で法的には撤廃されたが。1905年の段階でも多数の女が奴婢の身分に囚われていた[37]。彼女らはほとんどの場合、罪を犯した親戚の男の身がわりとして自主的に奴婢となったか、あるいはその身分を相続した者たちであった。
朝鮮には「白丁」と呼ばれるもうひとつの賤民階級があり、奴婢とは区別されていた。彼らは倫理的保護の対象外として社会からきびしく差別・侮蔑される対象であり化外の民であった。
朝鮮で実質的に奴隷制度が廃止されたのは日韓併合の時代であり、1910年に朝鮮総督府が奴隷の身分を明記していた旧戸籍を廃止し、すべての国民に姓を定めた新戸籍制度を導入した。


中国の奴隷制は、歴史を通じて様々な形を取ってきた。アメリカやアラブのモデルのように明白ではないが、中国の奴隷制はその対象を「半人、半物」と見ていた。[1]奴隷制は1910年に完全に制定された[2] 1909年の法律[3][1] のように、何度も法的な制度としては廃止された。しかしその実践は少なくとも1949年まで続いた[4] 中国の奴隷は多くの種類があり、原因も異なるが、大きな傾向は周より始まり、主人と奴隷の個人的依存関係は弱められ続け、基本的な観点では戦国時代から奴隷制度がなくなりはじめた。中華民国の成立後、中国は最終的に法律上から明確に奴隷の存在を消し去った。しかし実際は家庭の中に家内労働に従事する奴婢は中華民国の大陸時期には存在した。香港では、1922年に当地の一部の人間が反対蓄婢会zh:反對蓄婢會を組織して、伝統的な蓄婢制度の廃止を主張した。香港政府は1923年に『家庭女役則例』を通過させ、正式に蓄婢を廃止し、婢女は給料で雇われる女傭(メイド)に変わった。

唐の法律では、自由民は奴隷に出来ないこと、売られる奴隷は以前から奴隷として所有されていなければ法的に売買できないことを定めた。 この時期、シルクロード市場で多くの奴隷が取引された。いくつかの例では、ソグド人奴隷の少女がソグド人商人によって中国人に売られたことが分かる。[11]
法律上は奴隷と自由民が別々の階級に分けられ、奴隷は犯罪者として分類されていた。犯罪者と外国人だけが奴隷にすることを許された。 中国人女性と外国人奴隷の雑婚は禁止された。[12] 朝鮮やモンゴルや中央アジアやインドへの唐朝の軍の遠征で、外国人が奴隷として捕らえられた。[13] 男を処刑した後、唐朝は捕らえた女性を奴隷にし、宮廷や同盟部族へ行く家畜とした。 [14]
海賊に誘拐されたペルシア人はWan'an島や海南島に閉じ込められてから売られた。マー・ワラー・アンナフルのサーマーン朝は、トゥルク人を中国人に売った。[15]
自由民の中国人は、自身を売ろうと望まない限り、法的に奴隷に出来なかった。もし自身を売らなかった場合、売った者は処刑された。 しかしその他の人々は許可無く奴隷にされていた。南部原住民は奴隷の最も多い部分を占めていた。富を求めて、トゥルク系民族やペルシア人や朝鮮人の女性は、奴隷として中国人に売られた。[16] 中国は結婚のための女性不足に苦しんでおり、埋め合わせるために朝鮮人女性が中国奴隷市場に売られるようになった。 [17] 妾としての若い朝鮮人女性奴隷の中国需要は、朝鮮半島周辺海域の海賊に儲けになる市場を作り出し、山東で売られた。629年に山東の支配者はこの交易を禁じた。 [18][19]
南部原住民の奴隷少女の貿易の大規模な市場もまた存在した。中国政府は禁止を試み非難したが、効果は上がらず継続した。[20] インド人やマレー人やアフリカ黒人の奴隷も中国人に売られた。彼らの黒い肌や巻き髪が記録されている。[21]
唐の法では、奴隷を人間と同じ権利を持たない家財とみなした。自由民女性は男性奴隷と結婚できなかった。[22]

漢代から隋唐の時期では、法律上に明確な良民と賤民の区別があった。例えば部曲(奴隷の一種)が良民を殴り殺せば死罪だが、良民が自分の部曲を殴り殺した場合、部曲に罪があれば追求されず、部曲が無罪なら徒罪のみで銭で贖うこともできた。



[編集]

宋朝の北と西の隣国との戦争状態は、双方に多くの捕虜を生み出した。しかし奴隷身分から自由に移行することを容易にする改革が導入された。[1]
宋朝以前は、長期の雇われ人の地位は良民より低く、奴隷の一種であった。宋代から雇用による主従関係が良賤関係と同一視されなくなった。 実際には私属奴隷の現象は大量に存在したが、法律上は私属奴隷は禁止され、良民を売って奴隷にすることも許されなかった。宋代の一部の軍人は賤民視された。宋王朝以降は官奴婢が禁止された。

[編集]

モンゴル元朝は中国で大規模な奴隷制の拡張を実行し、より厳しい労働期間を復興した。[1] しかし中国人は文化的により統合されて居たため、こうした「奴隷」はしばしば貴重であり、自身が所有する奴隷を含む自身の権力を持つようになった。[4] 反乱や奴隷の暴動の期間中、こうした不忠から、モンゴル人自身より先に彼らの財産がターゲットにされた。[4]
元代は、モンゴル人そのものが奴隷制を実施していたため、官奴が盛んに行われた。

[編集]

朝を打倒すると、洪武帝朱元璋は公的に中国内の全ての奴隷を殺したが、その実践は継続した。 1,381年、ジャワ人は3人の黒人奴隷を明朝への朝貢品として送った。
明朝が1,460年にミャオ族の反乱(明朝綏寧苗族起義)en:Miao Rebellions (Ming dynasty)を鎮圧した時、 彼らは1,565人のミャオ族少年去勢し、そのうち329人が施術により死亡したが、宦官奴隷にされた。[24][25][26] この出来事は正統帝英宗の治世に起こった。329人の少年が死亡したため、より多くの去勢が必要だった。

1630年代には、多くの奴隷反乱が起こり、家内奴隷の数を制限する法が作られた。[1] 明朝初年には、朱元璋が奴隷を良民にする法令を発布したが、明中葉以後には奴隷を蓄える風習が盛んになった。 顧炎武によれば、「今の呉の仕官する家では、奴隷を1,2千人も持つ。(今呉仕宦之家,(奴)有至一二千人者。)」であり[28]湖北麻城の梅、劉、田、李の四家では「奴隷は3,4千人は下らない(家僮不下三四千人。)」という

清朝は当初、包衣阿哈en:booi ahazh:包衣)のような奴隷制の拡張を担当した。[4] 朝鮮では丙子の役で、清朝軍が李氏朝鮮を制圧した戦いの際に、清朝軍は50万の朝鮮人を捕虜として強制連行し、当時の盛京瀋陽)の奴隷市場で売られた。 しかし、中国本土内で少しずつ奴隷や農奴を小作人に変える改革を導入した。康煕帝は1685年に満州人世襲奴隷を解放し、雍正帝は1720年代にその他の奴隷解放を目指した。

清初はzh:投充法を実施したが、雍正年間になると正式に奴隸制を廃止した。 康熙帝は低税政策を採用したため、明代のように身売りして奴隷になる者が実際に大幅に減少した。しかし満州の風俗は主奴を厳格に分けたため、八旗の人は愛新覚羅家の家奴と見なされ、皇帝愛新覚羅家の主人であるため、旗人大臣君主に会う時にzh:奴才と自称した。もし単に漢人の身分ならば、「臣」と自称でき、もし「奴才」と称せば皇帝に退けられた。乾隆帝はある時漢人zh:官員が満風を擬して「奴才」と自称したために大い怒り、満漢を問わず、奏摺する時は「臣」と称するように勅命した。

イギリス奴隷解放en:British emancipationに続くその他の場所での奴隷制の「終焉」によって、苦力としてしられる安価な中国人労働力への需要が増した。1800年代中期のハワイキューバ誘拐周旋業者や商人によって奴隷に近い状態に置かれたり、1860年代のセントラルパシフィック鉄道en:Central Pacific Railroad建設中に中国人により危険な仕事をあたえるといった虐待があった。[4]










0 件のコメント:

コメントを投稿