2015年11月27日金曜日
『韓非子』(抄)・説林篇
『韓非子』(抄)・説林篇
〔邪臣は賢者を妨げる〕子ギョが孔子を宋の大臣に見えさせた。孔子は退出した。子ギョが入って孔子のことを問うた。大臣はいった、「わたしはすでに孔子を見たが、あなたを見ると、あたかも小さな蚤・虱のようだ。わたしはさっそく孔子を君に見えさせよう」と。子ギョは孔子が君に尊ばれることを恐れ、大臣にいった、「君はすでに孔子に会われれば、またあなたを見ることあたかも蚤・虱のようになることでしょう」と。大臣はそこで孔子を君に見えさせることはなかった。
〔見かけが大事〕シ夷子皮が田成子に仕えていた。田成子は斉を去り逃れて燕に行った。シ夷子皮は通行手形を背負って従った。国境の村に至り、子皮はいった、「あなたは涸れ沢の蛇のことを聞いたことがありませんか。沢が涸れて、蛇が引越しをしようとしました。小蛇がいて、大蛇にいいました、『あなたが先に行きわたしがそれに従えば、人は普通の蛇が行くのだと見なして、必ずあなたを殺すでしょう。それよりも、あなたがわたしを背負って行くにしくはありません。人はわたしを神君だと見なすでしょう』と。そこで、大蛇は小蛇を背負って公道を越えた。人はみなそれを避けていいいました、『神君だ』と。
今、あなたは立派でわたしは醜く、あなたをわたしの上客とすれば、千乗の君にすぎません。あなたがわたしの使者となれば、万乗の大臣となります。あなたは、わたしの舎人となるにしくはありません」と。田成子はそこで荷物を背負ってシ夷子皮に従い、旅館に至った。旅館の主人は慎んで待遇し、酒肉を献上した。
〔不死の薬〕不死の薬を楚王に献ずる者がいた。謁者がそれを取って奥に入った。宿衛の士が問うた、「食らうべきか(食べられますか、食べてもよいですか、どちらにも解釈できる)」と。謁者はいった、「可なり(食べられます、食べてもよいです、どちらにも解釈できる)」と。そこで、宿衛の士は奪ってそれを食べた。王は大いに怒り、人をやって宿衛の士を殺そうとした。宿衛の士は人をやって王に説かせていった、「臣は謁者に、『食らうべきか』と問いましたが、謁者は『食らうべし』といいました。臣はそれで食べたのです。これは、臣に罪があるのではなく、罪は謁者にあるのです。かつ、客が不死の薬を献じ、臣がそれを食べて王が臣を殺せば、これは死の薬です。これは、客が王を欺いたのです。そもそも、無罪の臣を殺して、人が王を欺いたのを明らかにするよりは、臣を許すにしくはありません」と。王はそこで殺さなかった。
〔わたしも知らない〕チュウ王は昼夜を通して酒宴を催し、楽しんで日を忘れた。その左右に問うたが、ことごとく知らなかった。そこで、人を送ってキ子に問わせた。キ子は身内の者に語っていった、「天下の主となって日を忘れれば、天下は危いだろう。一国がみな知らないのに、わたし独りがそれを知れば、〔謀があると疑われて〕わたしは危いだろう」と。そして、酔っていて知りません、と断った。
〔賢とする心を去る〕楊子が宋を通り東に行って宿屋に泊まった。妾が二人いた。醜い者は尊ばれ、美しい者は賤しまれた。楊子がそのわけを問うた。宿屋の父は答えて言った、「美しい者は自ら美しいとしますが、わたくしにはその美しさが分かりません。醜い者は自ら醜いとしますが、わたくしにはその醜さが分かりません」と。楊子は弟子にいった、「行いが賢であり、自ら賢とする心を去れば、どこに行っても称えられないことはなかろう」と。
〔邪説で小利を得て喜ぶ〕衛の人がその子を嫁がせ、その子に教えていった、「必ず密かに金を貯めておきなさい。人の嫁となって、追い出されるのは、いつものことだ。添い遂げられるのは、めったにないことなのだ」と。その子はそこで密かに金を貯めこんだ。姑は私事の多い嫁だと思って追い出した。その子が帰ったときの金は、嫁いだときの二倍になっていた。その父は自ら子に教えたことが非なのを反省せずに、自らそのますます富んだことを知とした。今、人臣で官職を得た者は、みなこの類である。
〔人はみな利を求める〕ウナギは蛇に似、蚕は芋虫に似ている。人は蛇を見れば驚愕し、芋虫を見れば総毛立つ。漁者はウナギを取り、婦人は蚕を拾う。利があれば、みな孟フン・専諸(いずれも勇者)となるのである。
〔伯楽の教え〕伯楽(馬の鑑定家)は、憎む弟子には、千里の馬の鑑定法を教え、愛する弟子には、普通の馬の鑑定法を教えた。千里の馬は、世に一匹いるかいないかなので、利は薄いが、普通の馬は日々に売れて、利は厚い。これが、『周書』に、「つまらぬ言葉を見事に活用する」といわれることである。
〔三匹の虱〕三匹の虱が互いに争っていた。一匹の虱がそこを通りかかっていった、「何を争っているんだい」と。三匹の虱はいった、「肥えた美味い所を争っているんだ」と。一匹の虱はいった、「君たちはまもなく人間が先祖を祭り、この豚が生贄にされて、茅で焼かれるのを憂えないのかい。君たちは何を憂えているんだい」と。こうして、三匹の虱は互いに集まって豚の血を吸った。豚は痩せた。人はそこで生贄として殺さなかった。
〔卜して吉〕楚王が呉を撃った。呉はソ衛・ケツ融を遣って楚の軍隊をねぎらわせた。しかし、将軍はいった、「こやつらを縛り、殺してその血を太鼓に塗れ」と。そして、二人に問うていった、「そなたらはこちらに来るとき、卜ったか」と。答えていった、「卜った。卜って吉であった」と。楚人はいった、「今、楚はまさにそなたらの血を太鼓に塗ろうとしているのは、どういうわけか」と。答えていった、「だからこそ吉なのである。呉が臣を送ったのは、もとより将軍の怒りを観させるためであった。将軍が怒れば、まさに溝を深くし塁を高くするだろう。将軍が怒らなければ、まさに備えをほどほどにするだろう。今や、将軍が臣を殺せば呉は必ず堅守するだろう。かつ、国の卜いは、一臣のためにするわけではない。そもそも、一臣を殺して一国を保てば、吉と言わずして何であろうか。かつ、死んだ者に知がなければ、臣の血を太鼓に塗っても益はないだろう。死んだ者に知があれば、臣は戦いのときに当たって太鼓を鳴らないようにするだろう」と。楚人はそこで殺さなかった。
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