金太郎(きんたろう)は、坂田金時(さかたのきんとき、公時とも)の幼名。または、金太郎を主人公とする昔話、童話の題名である。
伝説
金太郎にはいくつも伝説が存在する。
静岡県駿東郡小山町の金時神社(金太郎が祭られている神社)に記されたものによると、天暦10年(956年)5月に誕生したという。彫物師十兵衛の娘、八重桐(やえぎり)が京にのぼった時、宮中に仕えていた坂田蔵人(くらんど)と結ばれ懐妊した子供とされる。八重桐は故郷に帰り金太郎を産んだが、坂田が亡くなってしまったため、京へ帰らず故郷で育てることにした。
成長した金太郎は足柄山で熊と相撲をとり、母に孝行する元気で優しい子供に育った。
そして天延4年3月21日(976年4月28日)、足柄峠にさしかかった源頼光と出会い、その力量を認められて家来となる。名前も坂田金時(きんとき)と改名し、京にのぼって頼光四天王の一人となる。なお、他には渡辺綱、卜部季武、碓井貞光が四天王に名を連ねる。
永祚2年3月26日(990年4月28日)、丹波の国、大江山(現在京都府福知山市)に住む酒呑童子を退治する。酒呑童子は都に訪れては悪いことをするため、源頼光や四天王たちが山伏姿に身をかえ、神変奇特酒(眠り薬入り酒)を使って退治した。
坂田金時は寛弘8年12月15日(1012年1月11日)、九州の賊を征伐するため築紫(つくし・現在北九州市)へ向かう途中、作州路美作(みまさか)勝田壮(現在の岡山県勝央町)にて重い熱病にかかり死去。享年55だったという。
以上が金時神社に記された金太郎の伝説である。
伝説の歴史的検証
この「金太郎」「坂田金時」なる人物の存在は、疑わしいともされている。そもそも金太郎なる名前は、いわゆる幼名としてあり得ず、むしろ成人時の通称の特色を示している。例えば、八幡太郎と称された源義家などにその特徴が現れている。
なお、藤原道長の日記『御堂関白記』など当時の史料によると、下毛野氏に属する下毛野公時という優秀な近衛兵(随身)が道長に仕えていた。この公時が脚色されていったものらしく、頼光・道長の時代から100年ほど後に成立した『今昔物語集』では、公時の名の郎党が、頼光の家来として登場している。
小山町の隣にある南足柄市にも金太郎の伝説は多く、その内容は小山町との相違点が多く見られる。
ちょろり七滝の水は金太郎が産まれたとき、産湯として使ったといわれており、住まいである金時屋敷(現在の金時神社)の裏にある。金太郎が丈夫に育ち立派な武将となったことから、周辺の人々は子供が産まれると、この滝の水を産湯にしたといわれている。しかし、南足柄市には夕日の滝という場所があり、金太郎は四万長者の屋敷で産まれ、この滝の水を産湯にしたという伝説もある。
滋賀県長浜市と米原市は、昔は坂田郡であり、坂田金時は坂田郡の人であると伝えている。今も長浜市には足柄神社や芦柄神社が何カ所もあり、子ども相撲が今も連綿と行われている。なお、この地域は古代豪族息長氏の本拠地であり、金時はその一族であるという。王の文字はマサカリの象形文字で、腹掛け姿は鍛冶を象徴することから、いち早く鉄文化を手に入れた豪族というものである。
出生地とされる場所
静岡県駿東郡小山町 金時神社 南足柄地蔵堂の生地
小山町竹之下の坂田明神と中島の生地
長野県南木曽町読書の酒屋と蘭の足跡石
新潟県青海町上路(あげろ)の山姥の里
長野県八坂村の上篭(あげろ)金時山付近
画題
江戸時代には浮世絵で金太郎図が数多く描かれ、新年には干支に添えた形で出版された。美人画・役者絵を得意とする鳥居清長(1752年(宝暦2年) - 1815年(文化12年))は天明・文化年間に数多くの金太郎図を描き、美人画で知られる喜多川歌麿(? - 1806年(文化3年))も山姥と組み合わせた金太郎図を描いている。また、歌川国芳(1797年(寛政9年) - 1861年(文久元年))も多くの金太郎図を描いている。
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