脚気(かっけ、英: beriberi)は、ビタミン欠乏症の一つであり、ビタミンB1(チアミン)の欠乏によって心不全と末梢神経障害をきたす疾患である。心不全によって下肢のむくみが、神経障害によって下肢のしびれが起きることから脚気の名で呼ばれる。心臓機能の低下・不全(衝心(しょうしん))を併発したときは、脚気衝心と呼ばれる。
日本では平安時代以降、京都の皇族や貴族など上層階級を中心に脚気が発生している。江戸時代の江戸では、精米された白米を食べる習慣が広まり、将軍をはじめとした上層武士に脚気患者が多かった。将軍徳川家定は脚気が原因で死亡したとも言われている。
脚気は、元禄年間に一般の武士にも発生し、やがて地方に広がり、また文化・文政に町人にも大流行し、「江戸患い(えどわずらい)」と呼ばれた。領地では貧しく白米を食することのできなかった地方武士も、江戸勤番では体面上白米を主食としたため、江戸在住期間が長引くとこの病いに罹る例が多かった。経験的に米にかえて蕎麦(ビタミンB1を含む)を食べると、快復に向かうことが分かっていたため、漢方医学では療法として用いられていた。
明治になってから、国家的な大問題となった。明治6年に公布された徴兵令の目玉は、1日6合(江戸時代の「一人扶持」は1日5合だった)の白米を食べさせるという特典であった。このため、大日本帝国軍人の職業病となり、建軍期の日本は海軍がイギリス、陸軍はフランス、後にドイツ帝国を範としたため、大日本帝国海軍は栄養由来説、大日本帝国陸軍はドイツ帝国軍の細菌説を信じていた。後に、陸軍の軍医総監石黒忠悳と次の森鴎外が大日本帝国海軍の米食由来説を徹底的に非難して、大日本帝国陸軍は多大な犠牲者を出すに至った。鈴木梅太郎のオリザニン発見、更にビタミンの発見までこの惨状が続いた。帝国陸軍は「白米6合」を止め、麦3割の麦飯兵食を採用したのは、帝国海軍から遅れること30年の大正2年だった[1]。
国民の脚気死亡者数は、大正末期に年間2万5千人を超え、昭和期に入っても日中戦争拡大などで食糧事情が悪化する1938年(昭和13年)まで毎年1万人~2万人の間で推移した。1千人を下回ったのは、アリナミンとその類似品が浸透する1950年代後半であった(1950年(昭和25年)3,968人、1955年(昭和30年)1,126人、1960年(昭和35年)350人、1965年(昭和40年)92人)。しかし、国民の栄養状態の問題が解決された1975年(昭和50年)ごろから、栄養成分の偏ったジャンクフードの普及により、脚気が増加傾向にある。また、アルコール依存症患者にも多く、アルコール分解の際にビタミンB1が消費されることと、偏食もかかわっている。更に、1990年代以降、高齢社会(超高齢社会)を迎え、ビタミンB1を含まない高カロリー輸液での発症[3][4]や食品購入の不自由さから副食を食べず白米のみを食す食生活による発症[5]も問題視されている。
本症は多発神経炎、浮腫(むくみ)、心不全(脚気心、脚気衝心)を三徴とする。
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